誰も知らない名人伝説

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ID 00060 2008/10/08
その二 「第二ルネサンス」

科学万博の開催される二~三年前の頃だったろうか、某出版社のトップの紹介である、イタリア人が、社を尋ねて来た。

当時、私は、企画部門に所属していて、種々な、外部の人たちと応接をしていたが、彼は、とりわけ、ユニークな人物であった。
名前をアルモンド・ベルディリオーニ氏、ミラノの心理学者だと云う。

私も、そう英語が堪能では無いが、彼の英語もひどかった。


念の為、イタリア語の通訳も、つけたが、コルシカなまりとかで、十分に理解が出来ないが、大要は、彼の生涯のテーマである、「第二ルネサンス」をテーマとした。
シンポジウムを、日本で実施したいという事であった。

彼の言によると、第一のルネサンスは、イタリアで、起こったが、第二ルネサンスは必ず、日本で起るという、何か、くすぐったい話しであった。

自分の持っている、世界中の競れ部ネットワークで、ノーベル賞学者、著名なデザイナー・スピルバーグやルーカスといった。ハリウッドプロデューサーを二百名程集め、「第二ルネサンス」をテーマとして、東京でシンポジウムを開催するという雲をつかむ様な話しでは、あったが、何せ、紹介者が、大手出版社ということで、ともかく検討に入ることとした。それよりも気になったのは、彼のお付きの、イタリア人。秘書達の見事なプロポーションであった。

早速、企画第一稿を作成し、大手コンピューターメーカーに、打診をした所、これが本当に実現出来るなら、スポンサーになっても良いとの感触を得て、詰めに入った。


しかし、時がたつにつれ、相方の思惑にずれが生じ始めた。

我々のシンポジウムの概念は、討議すべき、テーマを明確に定め、パネリストを決定し、時間割を決め、結論に持っていくというものであったが、彼は、シンポジウムというのは、自然の流れの中で、誰もが自由に発言し、結論は出なくても良いと主張、参加者も、直前までは、未定ということで全く、意見が対立してしまった。
それでも、二~三ヶ月に一度は、例の美女軍団を引き連れ来日し、くったくなく、日本観光旅行をして帰る彼等を見て、国情の違いを痛感した。

期日も迫り、スポンサーからも、会場として押さえてあるホテルからも、催促を受け、ついにこのままでは断念せざるを得ないとの、通知を行ったところ、先方から、驚くべき提案がなされた。

何と、全額、自分達で負担するので、是非、当初通り進めて欲しいとの事、半信半疑ではあったが、これまでの経緯から、無碍にも出来ず、ボランティア・ベースで協力をする事とした。

しかし、それからが難事であった。


日本からの、パネリスト参加者についても、彼等から直接、ご本人に依頼したようで、日本の著名な芸術家、作曲家から、ひっきりなしに私に電話が掛ってくる。

聞けば、手紙には、日本の代理人は「ミスター長谷」なので、詳細は彼に聞いて欲しいと書いてあると云う。
いちいち、丁寧に、その間の事情をお話しし、「出席されるか否かはご自身の判断におまかせする。」と汗だくの対応を余儀なくされた。

又会場のホテルからも、一週間前なのに、未だ内金も入金されていない、「保証はどうするのか」と矢の催促、イタリアに、連絡をすると、「バンコ・イタリアの手違いで、間違いなく送金する」とのこと、ホテルに入金があったのは、開催三日前という際どさであった。

シンポジウム当日、悲惨な内容を覚悟で会場に行ってみて、驚いた。
ロビーには、レオナルド・ダビンチの有名なヘリコプターや自転車のレプリカが、整然と陳列され(後日、ミラノ訪問の折、ダビンチ博物館に所蔵されていた。)
会場内は、いつどこから集まったのか、世界中から二百名程の人たちが集まっていたのだ。ベルディリオーニ氏は、にこやかに出迎え「ありがとう、お陰で、開催にこぎつけられた。」と握手を求められた。
早速、参加者のリストを要求すると、「そんなものはない、皆私の友人達だ。」

シンポジウム自体も異様だった。

ベルディリオーニ氏が中央に座り、参加者二百人を次々に指名し、五分ほど話しをさせると、鐘を鳴らして、さえぎり、次のスピーカーへバトン・タッチしていくという、従来の常識では考えられない、まさに彼のワン・マン・ショーだった。

参加者の中にはアルゼンチンのノーベル平和賞受賞者や、欧州の著名ファッション・デザイナー達に交じって、先日私に電話をかけてきた、日本の著名芸術家達の顔も見えたが、未だに全容は分からない、とにかく、参加者リストが無いのだから。

四時間にわたる、シンポジウムが終わり、ベルディリオーニ氏と美女軍団達は、タクシーに押し合いへし合い乗り込み、イタリアへ帰っていった。
例のくったくない笑顔で、「アリベデルチ!!」

彼が何者で、本当の目的は何であったのか、未だに判然としない。

様々なプロジェクトをトライして来たがこれ程、ミステリアスで、冷や汗をかいた事は、かって無かった。関係者に、実害が無かった事は、幸いであったが、国際間にまたがる仕事は、うかつには手を出さぬ方が良いと痛感した。

後日、この話を田原総一郎氏に話した所、大変、興味を示し、赤坂のアークヒルズオープニング直前に、日本版
二百人シンポジウムを実施してみた、参加者全員がパネリストという事で、二時間という短い時間であったが、大変面白かった。テレビ朝日のご厚意で、その模様を、大晦日に放映したところ、かなりの反響があった。

これが、後の「朝まで生テレビ」の原型であったことを付記しておく。




その三以降は、時効が来たら書きます。
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